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坂口昌洋さんの手記 弟の思い出

弟の思い出 坂口昌洋  私と康蔵とは中学は独協であった。学年の差は僅かに一年であった。これが私の若い時の勉学に…

弟の思い出

坂口昌洋

 私と康蔵とは中学は独協であった。学年の差は僅かに一年であった。これが私の若い時の勉学に好都合であったことを推察されたい。誰れでも新しい学科を説明なしで理解することは困難である。私が自分の耳の悪いことに気付いたのは中学に入学の第一日からである。難聽は年と共に増し四年の頃には全く分らない講義があった。情ない運命であったが、塙保己一(はなわ・ほきいち)、エヂソンの伝記を読んで、一日研究家になりたいと話したら、兄さんが研究家になるなら私も大いに勉強しようと言って爾来二人は競争して勉強していた。

 一高中退後はまず高校の全学科を自習することであった。語学は弟の講義に依り、数学、動植物、理化学は弟のノートに依って自習した。大学の課程はノートおよび参考書に依つて自習した。毎日の諸先生の講義は間接であったが読み終ると自ら頭が下った。

 弟の講義は厳格で学校から帰ると茶菓を取ることなしに直ちに行なった。冬の短かい日には窓ぎわに出て講義をしていた。当方からの質問は必ず翌日に訂正して返事した。今日でも当時の状況が思い出される、学期試験の時は私も同じ問題で真面目に勉強して答案を書いた。大学卒業後第一に医化学を志望してくれたので私は非常に喜んでいた。須藤先生の初歩の実験者への御注意は悉く伝聞することが出来た。また私の方からも弟を介して質問し教を受けたことがある。

 大正二年頃弟との談話中に尿血液検査に関する話が出た。これが私の将来新血色素反応の発見の動機となりまた同時にアルギニン反応の発見となったことは日新医学雑誌(第三二年No.3 昭和一八年)に詳記されている。その後同様の記事が医事新誌(一四〇一号、昭和二六年三月)並にメジカルカルチュア(Vol.2No.3)に記載されている。

 弟には私の将来が一番心配であったろうと思う。幸に当時私にはアルギニン反応の発見が自宅研究室で出来、また弟には林先生御指導のヂフテリー抗毒素が完成したので青山内科に帰らんとするに際し、林先生に私を伝研の抗毒素の研究に使用されるようにお願いした結果、大正五年四月より伝研に奉職するようになった。その後隈川先生の御嘱望により、東大生化学数室に移り今日までにおよんでいる。この思い出を記すに当り弟の尽力が特に思い出される。

 弟は大学卒業後数年間に種々なる病気に罹った(糖尿病、盲腸炎、猩紅熱等)。 しかしそれにも屈せずよく目的を達した。実際非常な勉強家で常に未明から起きていた。戦前私の家から彼の応接室書斉が一目の下に見えていた、応接室の電気が消えれば直ちに書斉の電気がついて寸時も忽かせにしないことが窺はれる。それ故近親の者は無用の談話を避けるよう注意していた。

 父は仏教信者で兼てより目白の不動尊のところに住はれていた雲照律師に帰依していました。弟が幼少の時ヂフテリヤに罹り危篤に陥ったことがあります。当時は治療法がありませんでしたから父は困却の末雲照律師に祈とうをお願いしたところ数日で快方に向かったと申します。それ故不動尊の御縁日二十八日を忘れぬようにといわれていましたが不思議にも命日が二十八日であったことは忘れ得ぬ思い出となりました。

 また弟が四才私が六才の夏の一日、蟬が喧しく鳴くので二人で工夫して竹の一端に細袋をつけ蝉を取らんとしましたところ、父に見付かり、殺生といわれ二人は十一面観世音の前で二本のお線香を立て、これがとぼるまでざんげさせられましたことも思い出の一つです。

 この弟も病床に臥してよりは諸先生の御手厚きお治療に心から感謝して、昭和三十六年七月二十八日東一病院にて、栗山先生、冲中先生、始め大勢の先生方に見守られながら静かに永眠しました。

岩田鎮・池田正男編『坂口康蔵先生の思い出』(昭和37年7月1日発行)p.464-466

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