大正2−3年ごろ 医科学教室の伊豆旅行

八田善之進(元侍医頭) 故坂口康蔵君を偲ぶ
明治四十二年十二月廿八日我々は東京大学医学部を仮卒業した、余は年来の素志を貫徹せんと直に医化学(現今生化学)数室に入り隈川教授の下に須藤教授の指導の下に翌年一月より医化学実習を学ぶ事になったのであるが時に計ずも佐々廉平君、坂口君其他数氏と共に同数室に学ぶ事になって、茲に一層親交を深める事になった。扱て実習といへば簡単の様であるが実際にはそんな容易の事ではなかった。須藤先生は初めから我々自身工夫を重ね其妙味をさとらせる様な指導のやり方で、従って我々は共に熱心に研究且つ工夫を重ねたものである。一例を挙げると「キェルダール」氏窒素定量法の如き同じ事を一ヶ月余反覆実験を重ねても充分の成績を得られなかった時に先生が笑いながら手ほどきを致えられた、其後百発百中の成績を挙げ喜んだ事がある。万事斯くの如き指導ぶりであった。そんなわけで我々は知らず知らず相互親密の度が加わったと思う。
一年間の実習を卒へて佐々君欧米留学する事になり、坂口君と余はそれぞれのテーマで研究する事になった。斯くして夢の間に三年を過ぎ、病院内科臨床に移る事になり、相談を受け青山内科に入る様すすめた。勿論余も医化学研究を終へてから青山内科で指導を受ける様約束してあったからである。坂口君は三月頃より余は五月廿日より青山内科に入局することになった、即ち共に同じ内科で学ぶ事になったわけである。扱て坂口君は内科入局前、隈川先生より、余がたまたま血糖測定法を考案発表したので、この方法によつて健康人其他の血糖測定をする様テーマが与へられておったのである。之が君が糖尿病研究に入ったわけであり、余も陰ながら相談相手になったわけである。
続て糖尿病研究で名を挙げられ、其功績は、日本国内では系統的業績のない頃であり偉大である。君は実に真面目且つ真けんであつた。余入局以来仕事の関係上毎日病院内に寝泊りして居ったが、君の当直日には共に語り共に研究上の話に花をさかせ実に愉快であった。特に佐々、坂口、僕等の中佐々君が一番先に結婚、で坂口君、最後に僕が結婚したのであるが、何れも家庭的に相互に夫婦の集まる機会があり余の名古屋医専に赴任迄時々続けて居ったのを忘れる事が出来ない。
又との三人は至極甘党であり、医化学時代上野公園に散歩するや空也最中屋附近で「おしるこ」を味わって嬉々として数室に戻つた。又或る時は伊豆半島巡りをやり帰途伊豆山海辺茶屋に一休し、通りかかる甘酒屋を呼び止めて全部三人で飲み尽した笑い話もある、所が佐々君が欧米留学前の事であるが、余が尿を一ヶ月に亘り検査して糖尿を発見注意した事がある。青山内科時代には坂口君は糖尿を患つた事がある。大食で且つ甘党である余のみ今日迄糖尿を見ないのが不思議な位である。
次に君が東大医学部長となって約二年位して、私に「八田、僕は学部長をやめたいと思う。」と計った事がある。其理由はと反問したが、「医局員の指導が時間がなくて出来ないから。」と。余は自重を望んだが遂にやめた。これ全く君は其職に忠実なる一端を物語るものである。一旦引受けた仕事に全身を傾けてやる真けんさ、真面目さによるものである。
第一国立病院長時代は余も文其附近社会保険中央総合病院院長となり、近きが故に時々君を訪ね、世事を話し合う事が何よりの楽しみであり忘れる事が出来ない。
君は大学数授を引退するや数育界、又医学界に対する功により貴族院議員の任命の栄誉を得たのであるが、数ヶ月後余も又枢密顧問官任命の栄を得た時には、心の底より喜んでくれた一人で何事もたとへ様がない位である。
今回の病気の初め会った時、近頃歯疾を患い総入歯をしたが、話がまとまらないと云った事がある。依てなお一応入歯を入念に手入れをしたらと進めた事がある。君も余の進めの知く治療し直したと思って居るが、なお具合がよくないと話して居つたが、最後に「僕にも遺伝があるからな」と、一言考に沈んで居る様であった、余も自重を進めて別れたのである。
其後病床に入り、数年、昨年余が欧米出張中に他界された。実に追憶感無量の一言に尽く。
(元侍医頭)

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